深いプールの思い出


シンプル〜なエッセイです!


 

 水泳が苦手である。

 


 苦手、と言ってもまったく泳げない訳ではない。泳げはするが、遅いのだ。したがって私は「カナヅチ」ではない。そもそも、釘を打つ工具で人様を例えるなんておかしい。由来を調べてみれば、「カナヅチは水に入れると沈むから」だそうだ。なんとおめでたい由来であろうか。

 


 世の子供たちは、水泳の授業で「泳げる子」か「泳げない子」のどちらかに二分される。私は遺憾ながら「泳げない子」であり、水泳を頭痛の種にする日々であった。

 


 小・中学校時代はプールの授業は町の市民プールで行われていたのだが、小3ぐらいになるタイミングで、それまで入っていた浅いプールを離れて深いプールに移動させられた。浅いプールは子供にとって天国のような場所で、底にはイルカやアザラシの絵が描かれていた。「水泳」よりも「水遊び」という言葉が似合う、明るいオアシスであった。

 


 しかし、深いプールは違った。「水遊び」という雰囲気は微塵もなく、もはや「水泳」を通りこして「義務教育」や「学習指導要領」という単語が思い浮かんだ。底を探してもイルカやアザラシの絵はなく、青一色の中にレーンを示す白線が伸びているだけ。子供を楽しませようという気配は一切なかった。

 


 この光景を初めて目の当たりにしたとき、私は恐怖に震えた。

 


「ここで、……泳ぐ?」

 


 信じられなかった。この真っ青な世界で泳ぐなんて無理な話だ。浅いプールだと水面は股下ほどの高さであったが、このプールだと水面は肩までくる。いくらなんでも水深が増しすぎだ。もっと段階を踏んで深くすることはできなかったのか。計算ドリルはうっとおしいくらい少しずつ丁寧に難易度を上げていくのに、プールときたらこの有様か。優先順位が違うではないか。プールの深さこそ命に関わるのだから、丁寧に段階を踏ませるべきである。どこの役人がこの教育方針を定めたのかは知らないが、私は子供ながら失望した。「おい、現場では水泳パンツの子供が大混乱だぞ……!」と、届かない声を噛みしめたものである。

 

 浅いプールとの別れに涙を流すヒマも与えず、深いプールでの授業は始まった。周りを見ると、どうやら混乱している者とそうでない者がいるようである。無論、混乱しているのが「泳げない子」で、混乱していないのが「泳げる子」だ。分かりやすい。教師も楽であろう。

 


「じゃあぶくぶく沈んでみようー」

 


 恐らく、教師はこんなことを言った。ホイッスルが鳴ると、同級生は次々と沈んでいく。「国民皆教育」の名のもとに、沢山の水泳帽が沈んでいく。

 


 私は沈むことはできた。勢いよく息を吐き出しながら、底に身体を沈めていく。屋内のプールであったため、水は綺麗であった。白線は真っ直ぐ伸び、奥の壁で垂直に曲がっていた。いつか自分がこのプールの端から端へ泳ぐことになるなんて、当時の私からしたらSFじみた空想に思えた。

 


 命の危機はすぐ訪れた。

 


「じゃあぷかぷか浮いてみようー」

 


と言われるがままに浮き、ホイッスルが聞こえたので足をつこうとした時だった。

 


「…………?」

 


 足が、つかないのだ。

 


「…………!!!!」

 


 浅いプールで浮かんだ場合、膝を曲げれば自然と底に足がつく。しかし、深いプールでは事情が変わっていた。同じ感覚で足をつこうとしても、全く底に届かないのだ。

 


「これは……イノチノキキダ!」

 


 底に向かって無理矢理に足を伸ばしても、つくのは指先だけ。身体の重心は崩れ、おっとっと、と前によろけてしまう。なんとかもがいて足はつき、無事二本足で立つことができた。ほんの数秒の出来事であったが、私にとっては衝撃的だった。脳波をグラフにしたらとんでもない波形になっていたと思う。

 


 ドクドクと鳴る心臓を感じながら周りを見渡すと、他に命の危機を感じていそうな同級生はいない。そもそも水に浮くことができなくて困っている人はいたが、それ以外の人は難なくタスクをこなしていたようである。

 


「え、自分だけ……?」

 


 私は焦った。この中で私だけが、「水に浮いた状態から立つ」能力が欠如しているのだろうか。先生は「水に浮いた状態から立つ方法」など教えていないのだから、恐らくこれは人間の本能として遺伝子にメモライズされた動作であろう。だとすれば、私の遺伝子だけ劣っているのだろうか。脳裏に両親の顔が浮かぶ。大人という肩書きを手に入れ、二度とプールで泳ぐ必要のなくなった両親。

 


 あ、と気がついた。そういえば、私は彼らが風呂以外で水中に入っているのを見たことがないではないか。プールになど微塵の興味も無い両親。一緒に泳いだことなどない。いや、家族でスパリゾートハワイアンズ(福島県にあるでっかいレジャープール施設)に行ったことはある。しかし彼らは泳いでなどいなかった。立っていた。水に浸かっているだけだった。

 


 そうだ、私が立てなかったのは遺伝だ……。先天的だ……。私のせいではない……。

 


 頭がグルグルと回る中、再びホイッスルは鳴った。授業の滞りない進行を優先した私は、一抹の不安を感じながらも水に浮かんだ。万が一溺れたときのことを考え、酸素にまだ余裕がある段階で立ち上がる。やはり指先は底につくものの、身体全体はバランスを崩す。おっとっと再び。私としては大慌ての大パニックではあるのだが、「周りから見たら地味なんだろうなぁ……」と確信したのも事実である。火事場の馬鹿力的な展開で、子供に客観視の視点が芽生えた。親は喜べば良かろう。

 


 再びなんとかして立ち上がった私であったが、泳ぐたびに命の危機に瀕するなんてゴメンである。そんなの命がいくつあったって足りゃしない。

 


 私は近くにいた友人に、「立つときバランス崩さない……?」と聞いた。さぞ弱々しい声だったろうと思う。「立つときバランス崩さない……?(だから私はプールの授業に出たくありません助けてください)」くらいのニュアンスは含んでいたように思う。

 


 しかし、友人が答えてくれたのは単純明快なアンサーであった。

 


「両腕をバッて振り下ろすと、立てるよ」

 


 んな馬鹿な、と思った。そんな風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話があるものか。だが彼がやってみせるのを水中で見てみると、なるほど確かに両腕を振り下ろすと同時に身体がくるっと回転し、底に対して垂直な姿勢に身体を持っていくことが出来ている。見よう見まねでやってみると、いとも簡単に立てた。信じられなくて、2回ほど繰り返した。何回やっても立てるのである。

 


 さすが友人である。やはり持つべきものは泳げる友だ。そんな裏技どうやって発見したのか分からないが、とにかく私は「水に浮いた状態から立つ」という難関をクリアできたのだった。

 


 その後すぐに「息継ぎ」という難関にぶち当たり、高校に進学しても私を苦しめることになるのだが、それはまた別のお話。  

 

 

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