ラクガキ観察学演習 #3「救世主現る!」


お久しぶりです。ラクガキ観察学演習のお時間です。


およそ2ヶ月ぶりの更新となりました。この間に真夏の盛りは過ぎ、段々と涼しくなってきました。先日、ネットの記事で「今年は冬も暑い」という見出しを見ましたがあれは本当なのでしょうか。地球温暖化ここに極まれりといった感じで、私もゴミの分別に力が入る心地です。


さて、こちらのシリーズも低空飛行で第3回を迎えました。記事の内容上、新しいラクガキを見つけない限り更新することが出来ず、しかもただのラクガキでは駄目で、「おっ。これはいいねっ」とグーサインを出せるような魅力的なラクガキが欲しいのです。自然とスマホのカメラを向けてしまうようなどこか異質なラクガキを求め、街ではキョロキョロと鳩のように歩いているのですが、これが中々見つからず……。駅のトイレにありがちなポエムのようなラクガキも探しているのですが、いざ意識してみると案外見つからず、見かけるのは怪しげな電話番号のみ。女性用のトイレはどうなのか分かりませんが、男性用トイレの個室には電話をかけたら人生がどう転んでいくか気になる番号が書かれがちです。特に都会の公衆トイレはもうワンダーランドといった感じです。「ワンダァ……」と呟きながら用を足すのが楽しかったりします。

そういうわけで、記事に取り上げられるようなラクガキが見つからず悶々としていた頃、救世主が現れたのでした。


その救世主の名前は、「山崎勇太」といいます。彼は狭い道路の塀から急に現れ、私の心を救ってくれたのでした。


それでは記録写真をご覧ください。

 


こ、これは……!

 


デカい……!


私が彼を「救世主」と呼んだ理由がお分かりになったと思います。救世主って、苦しむ民衆の前にパーッと輝きを放ちながら現れるイメージですが、まさにそれです。両腕を広げて、片方の手に杖を持って、


「苦しむ民たちよ!」


と威勢の良い声をかける白髪ロン毛のおじさん。そんな救世主像を、私は「山崎勇太」さんに見いだしました。名前の感じから、「白髪ロン毛のおじさん」よりは「坊主頭の野球部」が思い浮かびますが、だとしても何も悪いことではないのですよ。


それでは、こちらのラクガキを詳しく観察していきましょう。


まず始めに目に付くのは、その「デカさ」です。見ての通りデカいです。あまりにデカいので、遠目で見ないと名前だと気づけなかったはずです。美術館で見る絵画って、デカければデカいほど圧倒されるじゃないですか。絵の意味とか良く分からなくても、とりあえずデカいだけで「凄い絵だ!」と思ってしまいますが、それと同じ効果がこの「山崎勇太」にも発生しています。これだけデカく名前を書けば、それは「名前」を超えた別の何かに生まれ変わるのです。なんというか、名前を通り越して、「覚悟」なんですよ。


そう、覚悟です。「俺はこの壁に名前を書くぞお!」という意気込みと、道行く通行人にどう思われても気にしない姿勢と、今後この壁に一生自分の名前が残り続けるという赤っ恥すらも気にしない潔さ。それら全てが覚悟という塊になって、公共の場に「ドカーン!」と現れているのです。これってもしかしてバンクシーと同じ構造?


勢いに任せて書いたようにも思えますが、よーく見るとそれも違うと分かります。「山」の字を見てください。

 


分かりますか、この丁寧さ。なんだか図形的で、ピクトグラムのような風貌さえ感じ取れます。ここまで真っ直ぐな線を壁に書くって、結構神経を使うはずです。なので、酒に酔った勢いで~とか、その場のノリでつい~のような流れで書かれた文字ではないわけです。明らかに「この文字は壁に残り続ける」ことを意識していて、せめて綺麗な字を書こうと、くいっと背筋を伸ばしています。

 


しかしその集中力は「勇太」までは保てなかったようです。デカい文字を書くのって、予想よりも時間がかかるんですよね。覚えていますか? 昔、書き初めの宿題に要した時間を。普段は小さな空欄にちょこちょこと名前を書いているので気づかないのですが、大きい名前を書こうとすると文字の間隔や中心線、遠目で見たときのバランスなど、意識すべき事が沢山あることに気づきます。山崎勇太も、恐らくその面倒くささに「崎」あたりで気づいたのです。そして、「俺って何のために壁に名前を書いてるんだろう……」という疑惑に耐えられなくなり、「勇太」の雑さが生まれたのではないのでしょうか。いやー、人間くさいというか息づかいが感じられるというか、見れば見るほど味があるラクガキだと思います。


ただ、この雑さは環境によるものだという見方もあります。どういう事かというと、「山崎」と「勇太」では線の太さが明らかに違うのです。「山崎」が太さ0.7のボールペンだとしたら、「勇太」は0.3くらいの太さです。その差は歴然。可能な考察としては、「崎」を書き終わったタイミングで手持ちの石が割れた、もしくは「崎」を書き終わったあたりで手が痛くなったので石を持ち替えたところ、思いのほか細かった、などが考えられます。いずれにせよ、「勇太」には「山崎」ほどの熱量は込められていないと言えます。「太」の最後の点なんていいですね。「おりゃっ」と石を叩きつけて書いたんだろうなぁ……。


あと、このラクガキは「位置」が良いですね。

 


ご覧ください。「山崎」と「勇太」の間に排水用の穴が見えますね。それがまるで名字と名前に挟まれた「・」のように見えて、「山崎・勇太」とまるで海外の人のような書き方に見えるのです。意図したものなのかどうかは分かりませんが、もしそうだとしたら相当なセンスです。


私は、この「山崎勇太」のようなラクガキが増えればいいのになぁと思っています。現在の日本に溢れるラクガキって、

 


こういうのだったり、

 


こういうのが多くて、確かに見た目はかっこいいんですが、心にガツンと訴えかける勢いが無いのです。「山崎勇太」と漢字で本名を書くのは、なんだか学園祭の閉会式でフンドシ一丁でステージに上がるお調子者みたいで、見ていて愉快なのです。コイツがいる限りこの国は大丈夫なんじゃないかと錯覚させてしまうような、ハッキリ分かるお馬鹿さ。公共の場にフルネームを書くという後先考えない行為には、そんな太陽のようなお馬鹿さが感じられるのです。……勝手に「山崎勇太」さんをお馬鹿と言ってしまいました。シンプルにこの塀の所有者とかで名前を書いたとかだったらどうしよう。

 


今回のラクガキ観察学演習は以上になります。最後まで読んでくださりありがとうございました。この匿名性の時代に書かれた、知らない人のフルネーム。なんだか見るだけで爽快な気分になるのは私だけでしょうか。

皆さまも、街を歩く際は誰かの名前を探してみてください。街中にポンッと現れるお調子者は、きっと日常の救世主になってくれるはずです。 
 

 

 



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