「質問がある方はいらっしゃいますか」と聞かれて、誰も手を挙げないあの時間が苦手です。
何と言っても、あの張り詰めた空気。悪いことをしている人間など一人もいないというのにあそこまで空気が張り詰めることってありますか。まるでどこかに殺人鬼が潜んでいるかのような、「ピリッ……」とした沈黙。これで殺人鬼がいないのだから驚きなのです。だから私はこの文書を書いているのです。
この状況が訪れがちなのは、「講演会」というイベントです。それも、広い会場ではなく教室のような狭い場所で講演会が開かれたとき。
講演する人はプレゼンを準備して、しっかりと話をしてくれた。教室のみんなもメモをとって話を聞いた。あぁ、素晴らしい講演会だったね。きっと将来の糧になるね。
「では誰か、質問がある方はいらっしゃいますか」
シィーーーーン。
あまりにも、です。あまりにも加害性のある沈黙だし、講演をしてくれた人があまりにも可哀想だし、こちらとしてもあまりにも申し訳ない気持ちになります。
誰も手を挙げない。誰一人、質問がない。これはつまるところ「すみません。あなたの話を真剣に聞いている感じを出していましたが、ほんとは全然聞いてませんでした」と解釈され、その場にいる教師陣をイライラさせます。「おい。さっきまで書いてたメモはなんだったんだ」と、今までの態度を疑われるわけです。それでメモに落書きなんかを描いていたら気持ちいいのですが、見てみるとしっかりと講演会の内容をメモしているのだから厄介です。「メモまでしたのに、質問が浮かばない」という状況はなんともきまりが悪く、「自分は心の底では講演会など興味がなかった」かもしくは「驚くほど講演会がつまらなかった」のどちらかの可能性に縛られ、いずれにせよ時間の無駄という感じがしてしまいます。
そもそも、「質問を思いつく」=「話を真剣に聞いている」という等式がいかがなものかと思います。別に、質問が思い浮かばないことぐらい普通だと思いません? むしろ、相手の話をなんの疑問も抱くことなく聞いているなんて素直じゃないですか。誇って良いと思いますよ私は!
しかし私が経験した数々の講演会(主に高校で催された)では「質問がある人は、ちゃんと講演会を聞いていた人である」という悪しき観念が色濃く反映されており、「ここで手を挙げない奴はダメだ。成長しない」という雰囲気が確かにありました。「質問をする生徒は偉い。だって質問をするから」という風潮がありました。別にやろうと思えば「歯磨きは一日何回しますか」だの「京都には行ったことありますか」だのいくらでも質問できますが、それではいけないのです。
何も質問が出てこないときの、教師達から失望の眼差しを向けられている気がするあの感覚。私は心臓がバクバクしてしまい、体中のエネルギーが萎んでいくような気がします。「話がつまらねーからアンタにやる質問なんてないヨ」と鼻をほじれれば良いのですが、そんなこと私にはできません。
でも、多少の開き直りも必要だと思います。「ま、質問がないならしゃあないじゃん♪」と切り替えて、何か他に楽しいことを考えるようにしましょう。さっきみたいに、講演会とは何の関係もない質問をする事を想像するのも楽しいかもしれません。「メロンを1玉食べたことはありますか」「ラーメンに酢を入れるタイプですか」「最近、近所の本屋が潰れたりしましたか」「ストリートミュージシャンの前を通り過ぎるとき、自分が『目の前を通り過ぎる冷たい通行人たち』に組み込まれている気がして嫌な気持ちになりますか」など、考えてみたらキリがありません。
こんな感じの質問はいくらでも思い浮かびますが、実際にしたら怒られます。「どんな質問でもいいですよ」と彼らは言いますが、それは「本音と建て前」の最たるものです。
「質問力」という単語が生まれたように、上手く質問を出来る能力はビジネスの場においても重要だとされているみたいです。この先の人生、幾度となく「それでは質問がある方は挙手を……」と言われる状況が襲ってくると予想されます。そのたびに私はどうでもいい質問を思い浮かべ、1人でニヤニヤする事に徹しようと思います。
……誰か、一緒にニヤニヤしてくれる人はいませんか。