前編はこちら。
部屋のドアが半分だけ開いた。
「それじゃ、お母さん行ってくるから」
私はイヤホンを片方外して(最低限の礼儀だ)「んー」と答えた。親子のコミュニケーションって、無駄に気をつかわなくていいから本当にありがたい。その証拠として、母も私の「んー」に答えることなく、ずかずかと部屋に入ってきて
「昼間はカーテン開けとけって言ったでしょっ」
と、半透明の白いカーテンを勢いよく開けた。別に、開けたところで日差しも入らないんだけどなぁ。この部屋日当たり悪いし。そう思っても口には出さず、私はまた「んー」と答える。私の母はカーテンの事は注意しても、日曜の昼間に受験勉強もせず、中学の頃のジャージを着てベッドに寝っ転がっている娘のことは注意しない。あー。やっぱり親子ってありがたい。
「夕飯のおかずは買ってくるから。何か食べたいのある?」
食べたいの……。
「……グミ」
「おかずって言ったでしょ」
こういうときって、以外と頭がはたらかない。放課後、教室で勉強してるときは無限に食べたいものが出てくるのになー。
「分かった。グミね。すっぱいの?」
「んー」
「じゃ、行ってくるから」
「いってらっしゃーい」
ドアが優しく閉まった。私は少しせいせいとした気持ちで、外していたイヤホンを着けた。でも、再生ボタンをタップしようとしたタイミングで
「あー、そーだ! 有希ー!」
と聞こえたので、またイヤホンを外さなくてはいけなかった。
再びドアが開く。今度は、半分のさらに半分。
「今日、注意報出てるんだった。気をつけてね」
母の声が、さっきよりも低くなっている。
注意報ってだけ言われても、言われた方はなんの注意報だか分かるわけない。なのにどうして親って大事なところをすっとばして言うんだろう。
「なに? 雨?」
「ヒグラシよ。ヒグラシ注意報」
あー、ヒグラシか……。私は少し強ばった身体を緩め、ベッドにとぷんと身をゆだねた。
「この頃すごいんだから。毎日ニュースでやってるよ」
「んー」
「んー、じゃなくてっ。今日は5時半くらいからピークなんだって。そうだ、あんたコレはちゃんと持ってる?」
チラッと見ると、母は両手の人差し指を耳にポンポンと当てて「コレ」を表現していた。……あれどこに置いたっけ。
「あっ! またそんなところに置いてっ。ちゃんと充電しておけって言ってるでしょう」
母の指差す方向を見ようと、ぐいっと身体をねじる。「コレ」はベッドと壁の間に挟まるように放置……、「保管」してあった。
「んー」
「コレ着けとけばヒグラシなんて聞こえないんだから。高かったんだから」
「んー……」
母は「コレ」と呼んでいるけど、確か正式名称は、「HIGURAN」と言った。絶妙にダサいというか、ひねりがなさ過ぎるというか……。HIGURANは、ひぐらしの出す周波数に特化したノイズキャンセリングイヤホンのようなものだ。でも曲を聴けたりはしないから、言うなれば「デジタル耳栓」って感じなんだけど……。
「今日はイヤホンじゃなくて、コレ着けときなさい」
「えぇー! やだぁ。だって音楽聴けないんだもん」
すっごくマトモな意見を私は言った。ていうか、国民はみんなそう思ってる。セミの声を遮断するだけの耳栓と、音量を大きくすれば勝手に蝉の声は聞こえなくなるしおまけに音楽も聴けるイヤホンとでは、後者が良いに決まってる。お母さんは車の中でしか曲を音楽を聴かないから分かんないんだよ。
「そっか。有希はずっとソレ聴いてるからいいのか」
高かったのに……とブツブツ言いながら、母はドアを閉めた。別に、誰も買ってくれなんて頼んでない。私は母の言う「ソレ」を再び耳に装着し、スマホの再生ボタンをタップした。もうプレイリストの最初からでいいや。好きなバンドの好きな曲が流れる。丁度イントロにかき消されないぐらいの大きさで、
「でもなんかあった時のために充電はしときなさいよー!」
という母の声が聞こえた。私は「んー」って言ったけど、向こうまでは聞こえていないだろうな。
仰向けになって、ただ天井を見つめる。私、人生でどれくらいの時間、天井を見て過ごしてきたんだろう。でも、もし「ここにどんなシミがありましたかクイズ」みたいなのを出されても正解できないだろうから、本当は天井なんて見てないんだろうな。じゃあ何を見てるんだろう。何も見てないと思う。
ふと、HIGURANを手にとる。見た目は、完全に白のBluetoothイヤホンみたいな感じ。耳にはめる部分がケーブルで繋がっていて、途中に充電ケーブルを挿す穴とか電源ボタンとかが集まった四角いパーツがある。お年寄りでも操作できるように、ボタンが大きい。……それがやっぱ、少しダサい。あと、今時USBType-Bってどうなの……。
そんなわけで、完全に若者の心を掴みそこねているHIGURANだけど、使われている技術はすごいらしい。この前、物理のおじいちゃん先生が興奮気味に語っていた。
HIGURANは、日常生活からヒグラシの音だけを消してくれる。内蔵マイクがヒグラシの鳴き声を感知して、それと逆位相の音をスピーカーから発することで音を打ち消し合う。仕組み自体はすごく単純なんだけど、ヒグラシの鳴き声となると簡単にはいかないらしい。ヒグラシの出す周波数は、詳しい数値は忘れたけれど他のセミの声より範囲がずっと広くて、しかも何層もの倍音が重なっている。だから、そもそも日常生活で発生する音からヒグラシの音を聞き分けるのが難しいみたい。
そこで使われたのが、声紋認証で使われる、声から個人を特定する技術。犯人を声から特定するために警察が使うこともあるらしい。HIGURANに使われたのは既存のデータをAIにぶち込んだ深層学習だけじゃなく、ヒグラシの鳴き声にしかない特徴を一瞬で発見する独自のネットワーク。これで、生活に溢れる雑多な音からピンポイントでヒグラシの音を感知、抹消することを可能にした。
あーあ。こういうのがテストに出れば私、満点なのに。私は音楽好きが高じてしまって、大学では音響技術の研究室に入ろうと思っている。まぁ、そのためには志望大学に受かる必要があって、そのためには今やってる高校物理を文句言わずに勉強する必要があるんだけど。……物理の先生、興奮してたなー。プリントまで配っちゃってたもん。ちなみに私はそのプリントを、他のプリントとは別のクリアファイルに入れてちゃんと保管してる。あのプリントは、私の仲間。
イヤホンから流れる曲に、すべての感覚をあずける。目を閉じたときに脳裏に浮かぶ景色が好きだ。もちろん曲によってその景色は変わるんだけど、どこか懐かしいような、恋しいような……。
私はそのまま目を閉じていた。さっきチラッとみたロック画面の時計は、15時半。時間の流れが川のようなものだとしたら、私はそこへ小さなボートを浮かべて風に吹かれるのだ。
目が開いた。
……あぁ、寝てたのか。少しだけ汗をかいている。顔がべたっとして気持ち悪い。
耳の軟骨が痛い。イヤホンを着けたまま、頭を横にしてしまっていたみたいだ。曲はもう流れていない。ベッドの隅に追いやられていたスマホの電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なままだ。充電が切れたんだと思う。
勢いよく身体を起こす。こうでもしないと、私は一生寝てる。頭にぐわんと力がかかり、溜まっていた血液がさーっと循環を再開するような感覚に陥る。
そして頭がスッキリして、気がついた。
「カナカナカナカナカナ……」
ヒグラシが鳴いている。反射的に、枕元に置いてある目覚まし時計の方を向く。文字盤は、5時12分をさしていた。ついさっき母が言っていたことを思い返す。ヒグラシ注意報。今日のピークは5時半。
「カナカナカナ」
あ
「カナカナカナカナカナ」
やばい
「カナカナカナカナカナカナカナカナ」
充電
「カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ」
してない
「カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ」
私はベッドを降り、裸足のまま廊下へ出た。HIGURANの充電は切れている。スマホの充電も切れている。どうしよう! どうしよう! 今、私の耳を守ってくれるものは何もない!!
階段を降り、リビングに降りる。窓の外では夕焼け空の下、残酷な赤色の街が広がっている。家のどこに行っても、ヒグラシの鳴き声が聞こえる。こんな大きく聞こえるなんて、ちょっとおかしい。今までもヒグラシの生音を聞いたことは何度もあるが、それでもまだノイズの域を出なかった。蜩害だなんて大袈裟だと思っていた。でも、今日は違う。例えるなら、頭蓋骨の中に虫かごを入れられたような。こんなの、経験したことがない。
テレビのリモコンを持つが、手が震えている。心臓がむき出しにそこにあるみたいに、馬鹿みたいにビクビク震えている。やっとの思いで赤い電源ボタンを押し、ニュースをつける。大きな地震が起きた時と同じように、画面に大きなテロップが出っぱなしになっている。
ヒグラシ特別警報。
テロップにはそう書かれていた。
アナウンサーの男の人が、淡々と、それでも緊迫した雰囲気は出しつつ、文章を読み上げていた。
「先ほど政府は、本日東北地方全域に発令されていたヒグラシ注意報をヒグラシ特別警報へと引き上げました。ヒグラシ特別警報は、ヒグラシが発する音が100デシベルを超えると予測された際に発令され……」
なんだか、現実離れしたことを言っている。画面上部に表示されたテロップには、警報が発令された地域がゆっくりと右から左へスクロールして続いている。私の住んでいる町の名前も、ある。そして現に、いま私が浴びせられているヒグラシの鳴き声は、騒音のレベルをとっくに超えている。
私の動悸が激しくなっている。息も荒くなっている。1回の呼吸で吸える空気の量が、明らかに少ない。
「国民の皆 ん、命を守る 動を って ださい。ヒグ シの き声は、激し 抑鬱 分や妄想、パニックを こします。イ ホンや耳栓が る場合は、直ちに装 し ださい。ま 、決して建物か 出な ださい」
怖い。アナウンサーの声が聞こえない。いや、声自体は聞こえている。しっかりと判別出来ている。でも、理解することができないのだ。声が耳に入って、脳に届くまでの間に、つるっと滑ってどこかへ消えてしまっているようだ。考え事をしながら小説を読んでいたら、内容を理解していないままページをめくってしまっていた経験がある。それと同じだ。文字は追えているのに、中身が届かない。頭の中がトマトジュースを作るミキサーみたいに唸っていて、私の五感をとても惨めなものにさせてしまっている。
頭の中でうずまく、この大きなエネルギーは何だろう。少し考えただけで、その正体は分かった。
言葉にすると単純で、これはきっと、「不安」と呼ばれるものだ。
私はもう、立っていることも出来なくなり、というか立っている意味が分からなくなり、というか立っている自分が酷く馬鹿らしく卑しいものに思えてしまい、その場に座り込んだ。両手を床につけると、まるで嘔吐をするかのような姿勢になる。土下座の直前みたいな姿勢とも言えるかもしれない。実際、胃から汚物がせり上がってくるように不安感や焦燥感が湧き上がり、吐瀉物の代わりに涙が出た。
どうしよう。
私の人生どうしよう。
高校3年生の夏が終わる。
終わる? そう、終わる。この夏が終われば、私の心もきっと終わっていく。冬が来れば、受験から目を背けることができなくなって、縄で縛られるような辛い毎日がやってくる。
目を背けることが出来ないのは、受験だけではない。私は、中学の頃、部活が終わった体育館で、片付けをしている途中、後ろの方から聞こえた悪口を、久しぶりに、思い出した。
なんて言われたっけ。すごく辛い気分になった事だけは覚えている。言われた方はずっと覚えている。最悪。「言われた方」になんて私、なりたくなかった。
酷い憂鬱だ。真夜中の線路を歩かされているかのような、果てしない憂鬱だ。歩くだけで足下は崩れ、何度もしてきた未来の想像が破綻する。進学のこととか、就職のこととか、明るい未来のこととか。実際問題、破綻してる。でも、これはヒグラシのせいだ。ヒグラシの鳴き声が持つ、効果なはずだ。
どうしようもなくなって外に出た。リビング出る直前に見たテレビの画面には行方不明者の数が伝えられていた。30人くらいいた。私も同じだ。多分みんな、こうなってたまらなくなって外に出て、行方不明者になるのだろう。
外に出ても逆効果だった。考えてみればとーぜん。奴らの声が、やけにクリアに耳に入る。
夕焼け空の中を彷徨う。誰かの家の、ナスが植えてある畑の横に、ヒマワリが咲いていた。とても綺麗で、私はこの耳を切り落としたくなって、気がついた。
これはヒグラシのせいじゃない。私のせいなのだと。
また目が開いた。
今度は何も聞こえない。
ゴワゴワした真っ白い布団と、すこし消毒っぽい空気の匂いから、ここが病院であることはすぐに分かった。
しばらくしてやって来たお医者さんの話によると、私はあの後、町外れにある無人駅で発見されたらしい。両手で耳を塞いで、なんかブツブツ独り言を言っていたそうだけど、なんて言っていたのかについては、お医者さんは教えてくれなかった。
その後、20分くらいカウンセリングの時間をとってもらい、私は病室を後にした。夜の9時になっていた。
カウンセリングでは、すごく当たり前のことを言われた。
人生には、嬉しいことと辛いことの両方があること。人には誰しも、好きな人と嫌いな人の両方がいること。辛くなったら休めば良いこと。人には回復する力があること。
未来のことなんて分からないこと。そして、過去のことも実際はよく分からないこと。言葉で説明できないことなんて、生きている中でたくさんあるということ。言葉で説明できないことは、無理して説明する必要なんてないこと。ちゃんとご飯を食べて寝た方がいいこと。
どれもこれも、考えてみれば当然の、すっごく当たり前のことだった。だけど、その当たり前のことを聞いて、私はまた泣いてしまった。
その日、ヒグラシ特別警報は解除され、ふたたび注意報レベルに引き下げられた。早く家に帰って、好きな曲を聴きたくなった。