逃げてドラ猫 #11「セピア」


 先日、実家から持って来ていた3DSを久しぶりに起動しました。まず驚いたのは、その画面の小ささ。当時はまったく気にしていませんでしたが、今になって見てみるとよくもまぁこんなサイズの画面でチマチマやっていたなァと、当時のガッツに感服です。結果、「視力の低下」という一生背負わなければいけない枷を招く羽目になってしまいましたが、持ち前のガッツで乗り切ろうと思っています。

 電源ボタンを押すと、スーパーマリオブラザーズの地上BGMが流れました。3DSはホーム画面を着せ替えする事ができ、当時の私はマリオのテーマにしていたのです。


 小さなスピーカーから流れるそのBGMは懐かしくて優しくて、まるで本体にチルド保存された当時の空気が、当時の鮮度を保ったまま放出されているようでした。温度、匂い、手垢……、そういったものを含んだ空気が私を包み、空間全体をノスタルジックにさせてしまうのです。


 思えば、私の幼少期は携帯ゲーム機と共にありました。Wiiも実家にあったのですが、リビングのテレビでゲームをするのが何とも恥ずかしく、あまり遊んでいませんでした。家族にゲーム画面が見られるのって嫌じゃないですか。相手がたとえ祖母であっても、「今こいつミスったな」とは思われたくないのです。気づいたときには、部屋でじーっとDSをプレイするリビング内弁慶が出来上がっていました。順調に目が悪くなっていきます。


 四六時中ゲームをしていた少年時代ですが、当時遊んだ内容はあまり覚えていません。あんなに時間をかけていたのに、何とも無常観あふれる現状でございます。あの頃の記憶は、一体どこへ消えてしまったのでしょうか。どうぶつの森で作り上げた小汚い村や、毎日のようにオンライン通信をしていたマインクラフトの記憶は、もう取り戻せないのでしょうか……。


 否。取り戻せます。


 だって、スクリーンショットを撮ってきたじゃありませんか!


 そう、携帯ゲーム機にカメラが搭載されるようになってから、画面の表示をそのまま写真に収めてしまう「スクリーンショット」という機能が備わりました。現在のスマホ時代からするとお馴染みの「スクショ」機能ですが、当時は画期的でしたよね。


「ゲーム画面がそのまま写真に!? これもう現実世界いらねーじゃん!」


と、ゾクゾクしたものです。しかし、私は肉体を捨てませんでした。賢明ですね。


 試しに3DSの画像フォルダを覗いてみると、当時のスクリーンショットが出るわ出るわ。スマブラやらどうぶつの森やら、出るわ出るわ。特にどうぶつの森。友人と通信をしたときの画面が沢山保存されていて、「はいチーズ」みたいなチャットがそのまま残っています。ゲームのオンライン通信という、場所も時間も超越した仮想世界の中で、あえて古典的な「はいチーズ」をかけ声として用いることは、当時の大越少年からしたら世界の構造を覆してしまうくらいダイナミックな「粋」でした。


 ただ、1つ問題があります。


 残されたスクリーンショットを眺めるのは、確かに当時の記憶を思い出すことのできる心地良い行為なのですが、今ひとつ足りない気がするのです……。


 何かが失われている気がします。「昔の写真を眺める」という定番の感慨行為になくてはならない、「何か」が……。


 仮にそれを、「過去感」と呼んでみることにしましょう。


 スクリーンショットは、当時の画面が100%の精度で再現されています。それはもはや「記録」というより「保存」に近いです。なので、撮影した当時から数年経ってスクリーンショットを見返してみても、そこにあるのは当時と全く同じ電気信号の羅列のみ。あまりに再現度が高い(というより完全再現な)ため、写真にあるべき「過去感」が無くなってしまっているのです。


 その結果もたらされるのは、「感慨の低下」です。


「なつかしぃ~!」


ではなく、


「あー、あったなー」


という印象になってしまい、感慨の度合いが薄れるのです。明らかに過去のものであるにも関わらず、直感でそう思えないのです。


 試しに、アナタのスマホに保存されているスクリーンショットを1つ選んで、表示させてみてください。とびっきり昔に撮ったやつをお願いします。


 どうですか?


 そこに、過去感はありますか?


 ……恐らく、皆無だったと思います。感慨も何もない、ただのディスプレイの再現。画面のどこかに当時の日付が表示されていたら過去感は出ると思いますが、それってちょっとズルいじゃないですか。だから日付作戦は無しです。スクショは、過去感が欠落しているのです。


 そう考えると、「過去」って朽ちるべきなのだと思います。幼い頃着ていた服は劣化でボロボロになっていきますし、小学生の頃に書いた作文は筆跡がかすれて読みづらくなっていきます。やはり人間にとって、過去は朽ちていくのが自然であり、朽ちていくからこそ過去なのだろうと思うのです。過去というのは道路で死んだ蝉のように、虫にたかられ、雨にさらされ風にも吹かれて、いつかは世界と溶け合って存在自体が消えていくべきものな気がします。


 しかし、情報化と共に発展した電子の技術は、過去を「朽ちない」ものにしてしまいました。スクリーンショットだけでなく、電子媒体に残された全ての画像は朽ちません。永久的に、当時の液晶の輝きを完全再現してしまいます。今や過去は、いつまで経っても残り続けるものになってしまいました。


 その結果、なんとなくではありますが、私たちは窮屈な思いを強いられています。現在は常に過去との比較対象であり、今を生きているのに、実は今を生きていないような、そんなよく分からない感覚に陥っているような気がします。いやぁ、厄介ですね。スマホは確かに便利ですが、こういうところで地味に攻撃を喰らわされていたとは。敵にすると嫌なタイプ。予選では絶対にあたりたくない。


 やはり、過去は朽ちた方が良いのです。写真も、時間が経って表面がセピアに色落ちしてこそ、過去感を持つのです。そうして初めて、まだ色落ちしていない100%の「今」を生きようと思えるのではないでしょうか。


 あー、そう考えると、ゲームのスクショを撮った意味あんまり無かったなー。どうせ見返すなら、ガツンとした過去感が欲しいんだけどなぁ。


 電子媒体に記録された画像が過去感を持つには、今のところは「解像度の差」くらいの手法しかありません。昔撮った写真は今より画質が粗いから、当然過去感は出てきます。でもそれはあくまで先天的なものであって、本来「朽ち」とは後天的なものでありますから、本質的には異なるんですよね。


 人生のストレージを圧迫し続ける過去が、いつかスッキリと朽ちてしまえばいいですね。いつまで経っても色あせない思い出なんて、本当は余計なんです。ディズニーランドの思い出とか、微かに聞こえた悪口の思い出とか、大盛りのラーメンの思い出とか、全部ぜんぶ朽ちて風になって良いんです。それで大丈夫なんです。無理をする必要なんてなかったんです。


 スマホの写真も、いつかセピアを纏って少しずつ無くなってしまった方が、私たちはきっと自然に生きてゆけるのでしょう。そうだといいなぁ。ぎらっぎらなブルーライトを浴びながら、そう思っています。

 

 



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