逃げてドラ猫 #14「LOVE・墓参り」

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 私は「墓参り」というイベントが結構好きです。好きだからといって、他人の墓を自由気ままに参るようなことをする訳ではなく、節度を守って実家の墓を参っています。お盆とか彼岸とか言う、良い感じのタイミングで参ります。日常的に墓地へ行くことはありません。私は僧ではなく大学生ですから。

 

 今でこそ家族が「墓参り行くぞ」と言ったら

 

「おっ」

 

と口角を上げますが、昔はそうではありませんでした。むしろ、今の状態になったのはつい最近の事で、幼少期は墓参りなど自分には何ら関係の無い面倒なイベントと思っていました。

 

 参ったとて、自分に何か利益が与えられる訳ではない。パワースポットと違って、何か願い事が叶う訳でもない。お供え物をせっせと置いても、数時間後にはどうせカラスに食い散らかされるだけ。こんなイベント、よくもまあ現代にまで続いたものだ。はねるのトびらが終わって墓参りが終わらないなんて、世の中には不思議なこともあるもんだ。そう考えていました。罰当たりな子供です。こんな子孫、先祖の側から願い下げです。

 

 しかし、こんなことを口に出したら両親や祖母から説教、ひいてはグーパンチを喰らうことを心得ていた私ですから、なるべく文句を言わずに墓参りに参加していました。心の中では「朝早くから起きて墓地に行くなんてまるで物好きではないか」とか最低なことを思っていましたが、もちろんそれも口には出しません。でも顔には少し出ていた気がします。あまりの無礼に恐ろしくなりますが、呪われたりしなくて本当に良かったとホッとしています。

 

 墓参りとは、亡くなった人を弔う大切な時間です。現世に残された我々は、真心をこめて墓参りをするべきです。

 

 でも、面倒なのもまた事実です。朝早くから起きて準備をし、お供え物や線香を用意し、車に乗って山奥にある墓地へと向かう。面倒ランキングでいったらかなり上位に食い込みます。「親に言われてやる掃除」と競るのではないでしょうか。

 

 一緒に行く両親も、別に好きで墓参りをしている感じではありませんでした。そりゃそうです。彼らも面倒だったのでしょう。夏の間に雑草が伸びていたりなんてしたら、墓参りはまず草むしりからスタートです。父が鎌を振り、朝っぱらから過酷な労働を強いられています。現世サイドの人間なのに、父は死んだ目をしていました。周りの墓は地面が石畳になっていたりして、雑草が生えることがありません。

 

「未来の子孫のために、自分の墓は石畳にしよう」

 

と、父の背中を見て思った記憶があります。

 

 一見すると「墓参り」はしんみりとしたイベントに思えますが、実際は「作業」の色が強いです。墓石に水(生前お酒好きだった人にはビール)をあげたり、お供え物以外で目にしたことがないようなお菓子を供えたりするのはまさに作業。失礼にも弔いの心はとうに忘れ、

 

「このお菓子を作ってる会社って、よく生き残ってるよなァ……」

 

みたいなことを考えていました。

 


「こういうお菓子って、パッケージに『墓参り用!』と書いてあるわけでもないのに墓参りに使われるよな……」

 

「いっそのこと『墓参り専用お菓子セット』を作ったら売れるんじゃないの……?」

 

と、ビジネスプランを生み出すこともありました。自分の墓参りで子孫が起業家精神を芽生えさせるなんて、先祖からしたらさぞ喜ばしいことでしょう。

 

 お供え物が終われば、いよいよ線香の時間です。我が家は百均で購入した「お墓参りケース」なるものに線香を入れていたのですが、あるときそれが紛失。代わりにスマホが入っていた化粧箱に線香を入れていた時期がありました。

 

 


 

 恐らく父のアイデアですが、この機転の利かせ方にはアッパレでした。スマホの化粧箱ってなんとなく捨てずにとっておいてしまいますが、こんな活用法があったとは。ささやかなライフハックです。ご参考までに。

 

 線香をあげると、優しく燃えているビジュアルと香りの効果により、作業感に溢れていた現場にも「しんみりムード」が漂います。家族で手を合わせ、いつも母が「来たぞ~い」とお墓に声をかけます。これはチョケているわけではなく、方言です。親のチョケなんてこの世で一番見たくない。

 

 こうなれば私も場の雰囲気に合わせ、亡くなった昔の家族に想いを馳せます。しかし、私が生まれる頃にはもう全員亡くなっていたようなものだったので、想いを馳せるのも困難。結局、

 

「お供え物のビスケットの余りが食べたい。でも水がないから口がパサパサになる。どうしようか」

 

みたいな余計なことを考えがちでした。子供なんてそんなもんです。これでバチが当たるなんて事があったら、それは先祖サイドが短気ってもんです。

 

 こうして、墓参りは終了します。全体的に「面倒だなぁ」という気持ちを持ったまま、形骸化された墓参りを実行していました。

 

「ならいっそのこと来なくていいよ」

 


とご先祖様は思ったでしょうか。残念。毎年来ます。

 

 ですが、これはもう昔の話。先ほども書いたとおり、今では墓参りが好きになりました。

 

 それは何故か。理由は色々考えられますが、「墓参りは不変である」という事実が大きい気がします。

 

 墓参りを好むようになったのは、確か高校1年あたり。高校に入学し、生活の環境が大きく変わったタイミングでした。

 

 この頃から、「日々って呆気なく変わるんだ」ということを実感していました。ぼーっとしている間に中学を卒業し、地元の友人達とは離れ、数ヶ月前までは知らなかったような道を使って毎朝高校に通う。そしてあっという間に大学受験は来て、高校で出会った友人達とも別れるのであろう……。

 

 日々はいつの間にか、自分を置いて過ぎていくようになりました。マラソン大会で「一緒に走ろうね」と約束した友人にまんまと裏切られたみたいに、私は道で1人になった感覚を覚えました。

 

「多分、自分の周りの環境はコロコロと変わり、それと共に自分の考えや価値観も、自分を置いてコロコロと変わっていく」

 

「今の自分を未来の自分は絶対に忘れていて、確実に別の人間に切り替わっている」

 

「人生は『積み重ね』などではなく、『切り替え』の連続ってだけなのかもしれない……」

 

 そんな事を考えて余計な不安に襲われていた時期に、墓参りをする機会がありました。 線香をあげ、お供え物を食うか食わないかを考えながら手を合わせた時、ふと気づいたのです。

 

「いくら自分が変わっても、墓参りはするのか!?」

 

 いくら身の回りの環境が変わっても、私はたぶん墓参りをするのです。変化してばっかりの人生で、墓参りという行為だけは「不変」なのです。

 

 この先、いくら科学が発展しようと、私はお供え物をあげて手を合わせ続ける。理由なんてなく、それが普通だから。

 

 この「とりあえず俺は変わらないよ」という墓参りの立ち位置が、変化に疲れていた私の心を良い感じに支えてくれました。小学校時代から続くノリを永遠にやり続ける地元の友人のような安心感がありました。こうして私はLOVE・墓参りになったのです。

 

 LOVE・墓参りになったとは言え、別に私の墓参りのやり方は変わりません。「LOVE・墓参りTシャツ」でも作って着ていたら説得力も増すのでしょうが、そんな気味の悪いTシャツは未来永劫作らないでしょう。墓参り好きになって変わったことといったら、手を合わせるときにちゃんと先祖のことを考えるようになったのと、墓参り中に「面倒だなぁ」という感情を顔に出さなくなったことくらいです。行動は変わらず、意識だけが変わりました。

 

 そういえば、私もいつか必ず死んで墓に入るんですよね。今度は子孫を見守る、いや子孫の墓参りを審査する立場に回れると考えると、少し楽しみです。
 

 

 そうだ、お供え物。私へのお供え物は、ちゃんと私が好きなお菓子にして欲しいなぁ。じゃがりこ、トッポ、おっとっと。カップラーメンとかファミチキなら最高。お供え物ってどういうシステムなんですかね。供えらえれた食べ物を天国で無料で食べる事が出来るクーポン的なヤツなんでしょうか。

 

 子孫が手を合わせているときに何を考えているかも分かってしまうのでしょうね。死者ってそういう超能力的なのありそう。まだ幼い子供なのにちゃんと私に想いを馳せていたりしたら、凄すぎてちょっと引いちゃうかも。あー、面白いなぁ。自分の墓参りしてる子孫を見守るの。

 

 やっぱ止めようかな、石畳。
 



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