「パン騒動」-2


SDGsの香り


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チャイムが鳴った。だけど、吉田先生の授業はいつも少し長引く。

 


「頼むよさっさと終わってくれよ」

 


という生徒達の苛立ちはゴムパッチンのように教室に張りつめ、

 


「はいじゃア、終わりまス」

 


の一言でパチンッと弾ける。先生が出て行くと辺りは指数関数的な速度でうるさくなり、教室は昼休みになる。

 


 西尾尚樹は、とりあえず、財布を持って廊下に出た。目指すは購買。積もりに積もった空腹を背負い、早歩きで人混みを抜ける。しかし、彼の足取りはだんだんと重くなっていき、気づけば早歩きと呼べる代物でもなくなっていた。

 

 
「いや、どーせ無理……」

 


 彼の頭を占めていたのはこの言葉だった。彼が所属する1年4組の教室から購買までは、長い廊下を歩き、渡り廊下を通り、階段を上り、また廊下を歩かなければならない。1年生の教室がある棟から購買はやけに遠く、3年生の教室が集まった薄暗い棟に入る手前の、廊下の途中が広くなった変テコなスペースにある。そのため1年生からの認知度は低い。購買がある、という噂は聞くが、面倒くさいので行く気が起きない生徒がほとんどである。

 


 日常生活をなるべく穏やかに済ませたい尚樹は、まずそんな場所に行くのに気が引ける。過去に1度だけ行ったことがあるが、あそこは3年生全員に幽霊のように取り憑いている「受験」の重苦しさが漏れ出ていて怖かったのだ。あと、行っても絶対にパンは売り切れている。教室が近くにある3年生の生徒達が、既に少ないパンを求めて競争を起こしているはずだ。1年生のガキが入る隙などないはずなのだ。  

 


 尚樹の足取りはどんどん重くなる。今自分が進めている足は100%「無駄足」である。どうして軽くすることができようか。尚樹は無駄足を進め、渡り廊下を通り、階段を上り、また廊下を進んだ。

 


 案の定、購買は人でごった返していた。一言で表せば、閉園直前のディズニーランドのお土産売り場。混沌だった。「うわぁすごい」と単純な感想を思い浮かべているうちにレジの方でベルが鳴り、

 


「はい、今日はもう終了ー!」

 


と、子供をしつけるような大声が上がった。今日のパンはもう売り切れた。はい、無駄足。

 

 群衆たちは「ハァ!?」「マジかよ」と口々に言いながら、散り散りに消えていった。ポツンと立たされた西尾は、そもそもパンを買えると期待していなかったので、特に何も言わなかった。平和的な佇まいであるが、実はこれも良くない。彼はラグビー部の中で一番身体が小さい。筋肉もついていない。彼は、この学校で一番「沢山食べないといけない人間」なのだ。

 


「はぁ……」

 


 思わずため息が漏れる。このままでは駄目だ、と何度も思ってしまう。このままでは、周りの部員たちについていけない。チームの足を引っ張ることになる。ご飯を食べれていないという「被害者」なのに、彼は罪悪感すら持ってしまうのだ。本当は「はぁ……」じゃなくて、「おかわりー!」とかを言ってなければいけない立場なのだ。

 


 彼は窓の外を眺めながら、教室へ向かい歩き出した。無駄足となった両足は重い。しかも数時間後には、この無駄足でグラウンドを走り回らなければいけない。これはだいぶ、危機である。

 

 

 

 

 夕焼けにはまだ早い空の下、ラグビー部の部員達はグラウンドを往復していた。2人1組、ボールをパスし合いながら並んで走る。ランパス、と呼ばれるメニューである。ホイッスルの音を合図にして、部員達は2人ずつ列から走りだしていく。

 


 もちろん、西尾もその列にいた。昼休みの時からプラス5時間分減った腹はもうどうしようもない。もはや自分が何をエネルギーにして生存しているのかも分からない。

 


「なんかいなかったっけ、空気食って生きる生物……」

 


 そんな浮世離れしたことを考えてしまうくらいに、彼は疲弊していた。

 


 ピッ。

 

 
 ホイッスルは順調に部員達を解き放つ。そうして西尾を先頭へと運んでいく。

 


 ピッ。

 


 あっという間に最前線。カーンと開けたグラウンドが身体の前に広がり、さっき飛び出した先輩達はもう向こうの方まで行っている。先輩達の背中。西尾をまんまと入部させることに成功した、先輩達の背中である。あの背中を追いかけることに対して「?」マークを投げかけることはもうやめた。

 


 ホイッスルの音を待つこの時間、西尾の頭は真っ青になる。走るのが嫌だという気持ちと、監督に見られているという緊張と、単純な疲労と、ほんの少しだけのやる気とが混ざって、最終的には真っ青になる。

 


 隣にいるのは、同じ1年の長谷川。西尾よりも背が高く健全な男子高校生の体型をしているが、ラグビー部の中で見たらまだ痩せている。同じくラグビー未経験者で、西尾と同じ「まんまと」組である。

 


 彼は右手の甲で汗を拭うと、大きな目をじっと前に見据えた。彼もまた、ホイッスルを待っている。

 


 ピッ。

 


 鳴った。2人は機械的に走り出した。

 

 

 (続く)



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