逃げてドラ猫 #6「夏の香りを共有したい」

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 先日、学校に行く途中に駅前を歩いていると、「夏の香り」がしました。午前の優しい風にのせられて、街の向こうの方から夏の香りがやってきたんです。

 


 さぁ、今からこの「夏の香り」についてつらつらと書いていく予定なんですけれども、これはトンでもなく感覚的な話でございます。香りを文章で表現するなんて芸当が、果たして私にできるのでしょうか。普段、冷蔵庫を開けるとき中がクサいので息を止めているような私です。自信など無い。

 


 まず、これを読んでくださっているアナタは、これまでの夏の香りについての説明(……といってもほぼ説明なんてしていないのですが)を聞いて、なんとなーく自分の中で具体的な香りのイメージを持てましたか? 

 


 恐らく、難しいと思います。だって、当の本人である私でさえも、その香りをイメージできないのですから。あの香りを嗅いだとき、「あぁ、夏だなぁ」と思った瞬間にはその香りは鼻の奥でシュンと溶けて無くなってしまったんです。今の私に残っているのは、確実にその香りが夏だったという感覚と、香りによって涼しい風が生まれるようなあの気持ちの良い感じくらい。香りの説明要素としてはあまりにも不十分すぎる。

 


 ですが、ここで諦めては男が腐る。私はまず、あのとき嗅いだ「夏の香り」をアナタと共有することを試みます。ここからは、想像力を豊かにして、神経を研ぎ澄ませて読んでくださいよぉ。蜘蛛の糸のように脆弱な可能性に賭けた、繊細な嗅覚コミュニケーションが始まります。集中して、ゾーンに入ってください。私も感覚センサーを全マックスにして、ゾーンに入りたいと思います。

 


 ……はい、今ゾーンに入りました。周りの景色が止まって見えます。どうですか? アナタも入れていますか? もし入れていないのなら、身体の能力不足が原因だと考えられます。筋トレから始めましょう。

 


 では、ここからはアナタがゾーンに入れたものと仮定して、「夏の香り」について説明をしていきます。

 


 まず、情景的なイメージから。情景といたしましては、田舎ではなく都会です。夏の香りと聞くと、カブトムシを捕りに行く森の中の香りやサワガニを探す小川の香りのような、緑がいっぱいの田園的な風景を想像する方も多いと思いますが、今回ばかりは違います。完全に都会でした。実際に私も駅前でこの香りと出会いましたからね。街の風景です。人がそれなりに歩いています。車が走り去る音も聞こえます。セミはまだ鳴いていません。カブトムシの気配など無く、せいぜいホームセンターで小さなカゴにうずくまって売られているかなぁというレベル。

 


 でもここで注意したいのですが、あくまでこれは情景的なイメージです。実際の香りの要素として葉っぱや木の香りが含まれている可能性は十分にあります。都会のイメージが想起されるからといって、実際の香りがコンクリートやアスファルトの香りで埋め尽くされているわけではないのです。ご注意ください。

 


 さぁ、少しずつ難解になってまいりました。アナタが「知らねえよどうでもいいわ」と言ってしまえばそれで終わってしまいますからね。ここはグッとこらえましょう。ゾーンは切れてませんか? まだ周りの時間は止まって見えますかね?がんばってくださいね。

 


 具体的な情景を申しますと、映画「君の名は」の東京のシーンです。観てない方には申し訳ないのですが、「君の名は」の光に満ちた東京の風景があの香りには抜群に合うのです。

 


 しかしここで強調したいのが、東京のシーンと言っても、「三葉が初めて東京を訪れたシーン」であるという事です。滝くんが日常的に触れている東京のまろやかな情景ではなく、田舎で生まれ育った三葉が、今までテレビや動画でしか見ていなかった東京の地面を初めて踏み、人混みの激流の中をメダカのように進みながらやっと駅を出たときに見る、キラキラとした街の情景です。

 


 ちょっと想像してみてください。田舎者には暴力的とも思える発展した都市の風景。でっかいビルの角はやけに尖って見え、その先端が太陽の光を反射して網膜にズキュンと一撃。道行く人々のなかに呆然と突っ立って、ほぼ脊髄反射的に息を吸う。

 


「ここが東京……」

 


 鮮やかな期待と不安が白い皮膚の下で駆け巡るのを確かに感じながら、私は今東京にいるのだと足の指先をぎゅっと握って、履き慣れたローファーの蒸れた靴底を擦る。さっき吸った息、もう体内ですっかり熱を与えられてしまったその息を、美しい東京に「はじめまして」と挨拶をするかのように、ゆっくりと吐き出す。

 


 その息を吐き出した後、鼻にヒュっと入ってくる香りが、それです! 

 


 恐らくその香りが、私が感じた「夏の香り」のはずなのです。フゥと息を吐いた瞬間、アナタの首元を風が通り過ぎましたか? もし柔らかい初夏の風を感じたならば、それは成功の合図なはずです。ようこそこちら側へ。もうゾーンから出ていいですよ。恐ろしく体力を消耗しているはずですから、しっかりと休息をとってください。スタミナ丼とか食べるといいですよ。

 


 ……さぁ、まだ「夏の香り」がイマイチ良く分かっていない皆さん。決してくじけてはいけません。あともう少しでアナタも感じ取れるはずです、あの明るく鮮やかな夏の香りを。焦る気持ちも分かりますが、ここは落ち着いて、気をとりなおしていきましょう。私も精一杯かんばります。

 


 では、また別の角度から「夏の香り」を説明してみますね。

 


 夏の香りと言いつつ、今までの説明は夏の要素が少なすぎました。先ほどは「君の名は」のシーンを夏の香りが呼び起こされる情景として説明しましたが、今度は「夏」に注目して香りを一から言葉にしてみます。

 


 夏に限らず、春夏秋冬はすべて固有の香りを持っている気がします。例えば春は、桜の香りがイメージできますね。光に満ちたご陽気な感じ。秋も想像しやすいですね。紅葉が散る、少し枯れたような渋い香りでしょうか。

 


 では、夏と冬はというと、これが言葉で説明しづらいわけです。

 


 一回、冬の香りを想像してみましょうか。辺り一面に雪が降り積もってる光景を想像してください。あるいは今にも雪が降りそうな曇り空の、すこし閑散とした住宅街でも良いです。玄関にちらほらとクリスマスツリーが飾られている季節感です。

 


 さぁ、イメージできましたか? できたら、さっそくそこに立ってみましょう。皮膚の感覚を叩き起こして、肌寒い空気の感触をイメージできたら、その空気を吸ってみましょう。

 


 どんな香りがしましたか?

 


 恐らく、私の感覚が正しければ、限りなく「無」に近い香りだったと思います。生命の温度が感じられない、マジで空気しかない空気。他に何の要素もない、無臭に近い香り。

 


 その香りをベースに、夏の香りを作っていきます。

 


 まずは、先ほどイメージした風景を、場所はそのままに季節だけ夏にします。ギラギラと輝く太陽を出現させてください。冬の、空の高いところにカーンと浮かぶ太陽ではなく、夏の、とげとげしく燃える太陽です。「あぁ、あの中心部では核融合反応でも起こってるんだろうなウキーッ」とサルでも分かってしまうくらいに輝く太陽です。

 


 さぁ、少しだけ香りが変わりましたよね? 空気に温度が加わって、そのおかげで街全体が少しずつ暖められ、溶けて、そうして空気に混ざった感じがしません? 少なくとも、「無」ではなくなったはずです。

 

 


 その空気を急いで冷やします。流水にかけますが、成分が流されてしまう前にさっととりだします。

 


 ではその空気の中に、夏祭りのかき氷屋さんを小さじ1杯ほど加えてください! そして、風景の向こうの方からこちらへむかって、勢いよく吹かせる! その空気を、嗅ぐのではなく、呼吸のついでに自然に鼻孔にinしちゃってください!

 


 それが、「夏の香り」のはずです……!

 


 ……どうでしたか? 無事、感じることはできましたかね? もしできたなら、おめでとうございます。こちら側です。よくぞ頑張ってくださいました。もうゾーンを切って大丈夫ですよ。体力を著しく消耗して骨密度とかも下がっているでしょうから、牛乳を飲んでゆっくり休みましょう。場合によっては病院で検査をすることもお勧めします。

 


 私が感じた「夏の香り」の共有を目指し、ここまで長々と説明してまいりました。

 


 でも、私の実力不足が故に、まだその香りのイメージを掴めていない方が少なからずいらっしゃると思います。申し訳ありません。いたずらに皆様の体力を消耗させてしまい、なんとお詫びしたらいいか……。

 


 せめて最後に、「夏の香り」を感じることのできる可能性が高い方法をお教えします。

 


 それは、「外に出て夏の香りを実際に感じてみる」という極めてシンプルな方法です。………。「最初っからそうしろよ」と、自分でも思いました。そうじゃん、外に出れば嗅げるはずじゃん。ゾーンとか入らなくて良かったんだ。こちらの想像力不足でした。併せてお詫び申し上げます。


 それにしても、あの香りの正体は何なのでしょうか。新緑の葉っぱの香りやアスファルトが放つ熱気の香りなど様々な説がありますが、現時点で私が推しているのが「防虫剤の香り」説です。気温が急に高くなり人々が一斉に衣替えをしたために、押し入れの防虫剤の爽やかな香りが街に充満した、という説です。他に何か有力な説を思いついた方は、ぜひご一報ください。一緒に研究して、あわよくば一儲けしましょう。

 


 ではでは、長くなってしまいましたが今回はここらへんで閉じます。最後まで読んでくださりありがとうございました。私もゾーンから抜け出させていただきます。

 


 ……はい、抜けました。あー、骨が痛い。

 



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