逃げてドラ猫 #15「詰め物がとれた話」

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 先月、歯の詰め物がとれました。上の前歯についていた詰め物です。最近、歯磨きをすると詰め物が「くいっ」とズレるのを感じ、そのたびに舌で「ぐいっ」と押し返して気づかぬふりをしていたのですが、健闘むなしく取れてしまいました。

 


 口から吐き出された詰め物の亡骸は、白く、小さく、まるで砂利のようでした。口に物を入れることには慣れていますが、口から物を出す機会はそうそうありません。そのため私は痺れるようなショックを受けました。しかも、詰め物が取れることは「歯医者行き確定」を意味します。私は二重のショックに襲われ、しばらくその場を動けなくなってしまいました。

 


「お前は馬鹿だっ。どうして取れやがったっ」

 


と詰め物を責めてみても、事態はなにも変わりません。試しに舌で前歯の裏をなぞってみると、すっかりクレーターのような穴が空いています。「すかすか」という形容詞がとてもお似合いという具合で、すぐに治さなければ取り返しのつかないことになる事は明らかでした。時間が経てばこのクレーターはますます広がり、私の前歯はぼっこりと穴が空いてキツツキの住処のようになってしまいます。そんなの愉快ですが、もって2~3日の愉快でしょう。そんな愉快は要らないのです。

 


 とりあえず、これは歯医者に行こう。

 


 そう思ってから一ヶ月も経過してしまいました。

 


「ようし、これは歯医者に行かねばな」

 


という意気込みを何度もしたのですが、その意気込みが「歯医者の予約」というハードルを越えるのを手助けしてくれる訳ではなく、分かったのは「意気込みをするだけでは意味が無い」という事実だけでした。テスト期間やサークルの活動が続き歯医者なんて行く暇がなかった、という言い訳もできるのですが、空き時間に行こうと思えば行けました。この怠惰がいつか私の身を滅ぼすのでしょう。滅ぼされたら報告します。お楽しみに。

 


 前歯に大きなクレーターを抱えたまま一ヶ月ほど生活したのですが、あまり気持ちの良い日々ではありませんでした。普段は意識しないのですが、舌先でふとクレーターに触れてしまうことがあります。その瞬間、私は「一般的な男子大学生」から「前歯に欠損を抱えた男子大学生」へと没落してしまうのです。この落差が精神的なダメージを与えてきました。特に、友人たちと楽しく喋ってる瞬間にこの没落が発生すると、みんなを騙しているかのような罪悪感に苛まれるのです。自分は、本来この場所にいていい人間ではない……。本当は歯医者に行くべき人間なんだ……。

 


 逃げちゃだめだ……。逃げちゃだめだ……。逃げちゃだめだ……。

 


「シンジ、歯医者に行け……!」

 


 ひどいよ父さんっ!

 


 そういうわけで、私は重い腰をあげて歯医者を予約するに至ったのでした。

 


 歯医者を予約するといっても、私は今の街に引っ越して来てから一度も歯医者に行ったことがないため、近くに歯医者があるか探すところから始まります。これも、私が歯医者に行くのを渋った原因の1つです。

 


 試しにネットで調べてみると、歯医者の多いこと多いこと。世の中には歯で困っている人がこんなにもいるのかぁ、と感心するばかりです。道行く人はみんな「私は正常な歯をしてますけど?」みたいな顔をしているくせに。今度は私が騙されたような気分です。

 


 友人からの紹介もあり、近くの歯医者を無事に予約できました。

 


「これでもう安心。あとは行って治療をするだけだ」

 


などと鼻歌交じりに考えていたのですが、冷静に考えてみれば歯医者のメインはそこなのです。私はこれから道の歯医者に単独で乗り込み、このどうしようもない歯を治療しなければならないのです。

 


 歯の治療とは一般的に「痛い」ものです。子供は確実に泣くのが相場。幼い頃は「行きたくない場所」といったら「歯医者」か「地獄」でした。

 


「そうか、これから痛いことをされに行くんだ……」

 


と一瞬にして気は重くなり、

 


「久しぶりの歯医者だから他に虫歯が見つかるかもしれない……」

 


ということに気づいてますます気は重くなるのでした。なんで詰め物の野郎は取れちまったんだよチクショウっ。お前がとれてから良い事なんて1つもないじゃないかっ。せめてQUOカードぐらいよこしやがれっ。

 


 恐怖と怒りでブルブル震えている間に時間は過ぎ、治療当日がやって来ました。予約時間の5分前に到着した私は、温かみのある落ち着いた待合室でじっと待ちます。思わずリラックスしてしまいそうですが、これは患者を油断させる罠のはず。ウツボカズラが甘い匂いで虫をおびき寄せるのと全く同じです。

 


 どうやら問診票を書かなければいけないようで、過去の病歴などを必死に思い出します。私は幼い頃にぜんそくで入院したことがありますが、これは問診票を書くときにしか思い出さない記憶です。生活習慣を答えるアンケートもあり、飲み物に「ジュース」とあったので渋々○をつけましたが、少し恥ずかしかったので「その他」の欄に「水」と書き足しました。年中ジュースを飲んでいるようなヤツとは思われたくなかったのです。

 


 問診票を出してしばらく待っていると、ついに私の名前が呼ばれました。私はちょうど鼻の調子も悪く、鼻声で江戸っ子のような返事になってしまいました。

 


 診察室には、歯医者さんでしかお目にかかれないメカメカしいベッドが並んでいました。私は一番手前のところに座らされ、いったんうがいをするように言われました。コップを置いたら水が出るハイテク蛇口がありました。あれ便利ですよね。あんなの召使いがいるみたいなもんじゃないですか。枕元に常設したい。

 


 程なくして先生がやってきて、治療が始まりました。詰め物が取れたというだけなので、基本的にはまた穴に詰め物を入れてやればいい話。虫歯を削ったり歯を抜いたりする訳ではありませんから、治療は特にこれといった山場もなくスムーズに進んでいきます。

 


 途中、少しだけクレーターの辺りを削るという話になり、

 


「痛かったら言ってねー」

 


とお決まりの文句を言われてドリルが登場したのですが、それのまあ痛いこと痛いこと。痛い旨を報告しようかと思いましたが、口は器具を入れられているので到底しゃべれる状況ではないし、そもそも歯を削っているのだから痛くて当然だろうということもあり、私は何も出来ませんでした。あそこで私が何かアクションを起こしたとて、「じゃあ痛くないドリルを持ってきます」なんて展開になるとは思えません。彼らは「はい、そうですか」と言って痛いドリルで治療を続けるだけです。まんまとはめられたのでした。

 


 無事、詰め物を入れる作業は終了しました。先ほどまでスカスカだった私の前歯が、しっかりと樹脂で埋められています。なんだかこれだけで男を磨いた気分がして心地良いです。

 

 よし、後は帰るだけ。そう気を緩めた私に、先生があるワードを投げかけました。

 


「親知らずがね……」

 


 親知らず……。オヤシラズ……。OYASIRAZU……。

 


 私の顔は一瞬で引きつってしまいました。先生にもそれは伝わったことでしょう。医者というのは患者に好きなだけカミングアウトが出来るのだから、なかなか面白い職業だと思います。

 


 どうやら、私の口内にも親知らずが出ている。それだけならまだ良いのです。じゃあさっさと抜いちゃいましょうね~というお気楽なお話です。

 


 しかし、事態は深刻でした。

 


 話を聞くと、私の口内では親知らずの上に肉が被さってしまっているらしく、それを切らなければいけない。つまり、「手術」ということになる。歯の治療のなかでは結構でかめな「手術」である。……らしいのです。

 


 衝撃の展開でした。前歯に出来たすき間を埋めにいっただけの私が、まさか「手術」という単語を耳にする羽目になるなんて。これが映画だったらポップコーンを食べる手が止まってました。

 


「まあ、親知らずはみんな抜いてると思うから。友達にも聞いてみて。それで、検討してみてください」

 


 そんな風に軽く言われて私は診察室を出て、そのまま歯医者を後にしました。「手術を検討する」という言葉のアンバランスさがどうも腑に落ちません。手術なんて、必要に迫られてやるもんじゃないですか。「検討してみる」なんて言ってるヤツ、ぜったい手術しないに決まってる。

 


 とりあえず医者に言われたことを母にLINEしてみると、どうやら姉も同じだったことが分かりました。私は「呪われた一家」とだけ返信し、とりあえず今後はしっかり歯磨きをしようと心に決めて、帰路についたのでした。

 



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